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----- 間宮さんは、もともと東久留米生まれなんですか?
間宮みき(以下『間宮』) 違うのね。(笑)北区で生まれて、小学校の入学式の手前ぐらいに野火止に引っ越してきたんですよ。小学校は東久留米市立第一小学校だったのね。でね、家から歩くと45分ぐらい…小学生の足だと最初かかるのね。それが辛くて辛くて。もう忘れ物なんかしたら致命的。(笑)でもね、今思うと畑の中をずーっと歩くのよ。それがね、凄くいい思い出なのね。途中の桑の木に登って桑の実たべたりとか…それって子供にとって凄く冒険なのよね。「あ、今日はここで桑の実食べちゃった」とか、「今日はここででんでん虫捕まえちゃった」とかって、凄い自然豊かで。
----- 毎日微妙に道変えて歩いたりしたんですか?
間宮 するする。探検みたいなのもするけど、同じ道を通っても自然ってやっぱり変わるでしょ。そういうのって貴重な…今思うとね(笑)当時は辛かったけど。で、水の中を膝ぐらいまで…今本村小学校ができてるあたりの畑で、右の川の方が下がってるので、ずっと雨が降ると水が上がるのね。その中をジャブジャブ歩くんだけど、もう長靴なんて履いても全然意味ないのね。それがまた楽しかったりして。ザブンザブンって。
----- 御両親に怒られたりしませんでしたか?
間宮 だってもう、親もそこを歩いてくるのはしょうがないわけだから、別に怒られもしないし。だけど、それがやっぱり自然との触れあいっていうかね。前に住んでいたところは団地で、コンクリートの中に公園が整備されて、っていう中だったからきっとそこで育ったのとは全然違うんじゃないかなぁ。
----- 中学校はどちらになるんですか?
間宮 中学校が久留米中で、やっぱりかなり近くはなったけれども久留米中も途中で本当は下里中学校とどっちに、って話があって。ちょうど私たちの世代だと所沢街道を親が渡らせたくない、って野火止の一群の父兄の方の思いがあって、結果的には最終的に久留米中に学区は…野火止は今も残ってるんじゃないかな。
----- 所沢街道ってまだ南町の辺とか狭いですよね。
間宮 南町の辺りって、自転車で歩道を走ると、曲芸みたいだよね。あの辺は常に危ないからどうにかしてほしいっていうみなさんからの声っていうのがあるのね。所沢街道は都道なんだけど、父(稲場三千男・前市長)のときからなかなか直すっていうのが難しくって、でも絶対にバリヤフリーどころじゃないよね、普通に歩けないから。
----- 中学生の頃、所沢街道を通学路にしていたんですけど、背負っている鞄が車に接触するんですよね。車のミラーに手をぶつけられたこともありましたけど。
間宮 ほんっとに危ないよね。だからあそこはどうにかできないのかなぁってね。道がいろんなところで広くはなってきてはいるけど、やっぱりその辺りがまだまだ交通量に対して細い道とかっていうのがね…まだまだ難しいよね。






----- モダンバレエを始めたのはいつ頃なんですか?
間宮 あ、それは3歳のときからなのね。それは紆余曲折あって大学入って辞めちゃったのかな。
----- バレエをやってて良かったことってありますか?今に活かされていることとか。
間宮 あ、舞台度胸はやっぱり凄くついたと思うのね。何をやるにも…例えば話す時もそうなんだけど、その寸前までは物凄くアガってしまうわけ。だけど、舞台に乗ってしまった瞬間からは成りきれちゃうのね。それはとっても大きいと思うし。あと、自分を表現するっていうこともバレエの経験の中から得られたのかな。
----- で、プロフィールにもありますが、陸上部に入ったのはいつですか?
間宮 それは中学。うちの久留米中は陸上がとても強かったのね。多摩総体とかだと久留米中の独壇場になっちゃうわけ。入った時はそんなことは知らなかったけど。陸上は自分でも自信があったから入ったのかな。短距離をやりたかったのね。でも入ってみたら顧問の先生が跳躍(走り幅跳び)が向いているって。本当は走りたかったんだけど。最終的には多摩総体とかで優勝して。
----- その時、自分の中でバレエと陸上部と比重がどっちの方がありましたか?
間宮 自分の中の比重は…私、やるときはどっちに対しても、何に対しても精一杯やるのが好きなのね。だから陸上やっている時は陸上、バレエにいったらバレエをめいいっぱいやる。中途半端はイヤだな。
----- 高校の時も陸上を続けられてたんですか?
間宮 あのね、清瀬高校だったんだけど、陸上があまり強くなかったんだね、これが。(笑)でも、リレーがそこそこまでいったのかな。なんだけど、盲腸の手術をしたり、なかなか伸び悩みましたね。でも3年までやりました。
----- 今多忙と思いますが、へばってる感じがありませんね。(笑)
間宮 みんなは心配してくれるんだけど、わりと根性とか体力とか、その辺って掛け離れているように見えるかも知れないけど、わりとスポ根もの好きかも知れない。(笑)
----- 見た目とは違いますよね。(笑)







----- いつ頃まで野火止にお住まいだったんですか?
間宮 結婚するまでは野火止に。結婚して一時西東京市に引っ越して。でもね、やっぱり一つには親の傍ってことと、一つには住み慣れた東久留米に戻りたいっていうのは何となくずっとあって、本町に4〜5年前に越してきて。 ----- 小さい時から長く野火止に住んでいたいらしたわけですが、街の風景はどう変化していますか?
間宮 野火止はあまり変わらない場所だったのね。あそこに住んでいるときはどちらかというと生活の中心が清瀬にあって、なんて東久留米の中心地から遠いところなんだろうってのがまず常々思ったのね。でもやっぱり父が市の職に就くその辺りから、東久留米っていうことを意識して。だから市内循環型のバスって話がよく出て、野火止とかに住んでるとそういうの欲しいよなって思うのは凄くその当時から思いましたね。やっぱり中心からちょっと外れた地域の方の足の確保っていうのは大切。なんらかの形で市役所とか病院とかへの足の確保が重要な課題じゃないかなって。
----- 例えば野火止に住んでいた時は、東久留米市と清瀬市の間で生活されていたわけですが、お互いの市をみてくらべるものはありますか?
間宮 くらべるっていうか、今もいわれる話なんだけど、友達がちょうど野火止用水の橋の真ん中で車に接触したわけ。で、警察に来てもらった時にまず開口一番「どっち側に自転車が倒れましたか?」って。それって要するに管轄が自転車がどっち側にあったかによって田無警察か東村山警察か、って話になって。それってねぇ?まずは本人大丈夫ですか、って話なのかなぁって思うけどね。そては大きな事故じゃなかったけど、市の境目…今、広域っていわれるけど、住んでいる人は市の境界線の上に線が引いてあるわけじゃないわけだからいろんな意味でどっちにもね。この間も会の時にひばりが丘の方がおっしゃってたように児童館とかもなるべく…図書館は今行き来ができるんだよね、そういう発想が必要だと思うんだよね、いろんな意味で。
----- 西東京市にお住まいの時はどう思いましたか?
間宮 西東京市っていっても私はひばりが丘の駅のすぐ近くだったので、これがまた新座との境なんですよね。これもあまりに中心地から外れていたのであまり西東京市というイメージとはちょっと違うんだと思うんだけども、一つには中心から外れてるからっていうのもあったんだけど、情報としていろんなものが入って来ない。市報は来ていたんだけども、西東京で何が行われているのかとか、問題点はなんだったのかとか。自分の認識もちょっと希薄だったのかなぁ…東久留米の方がそういう勉強会とかも活発なのかな、って勝手に思っていたかも知れない。多分それは東久留米にいてもそういうのを意識してないと情報を得られないんだと思うのね。それは西東京に対しての、住んでいる時の「ここが自分の街」っていう思いが薄かったせいも多分あるのね。だから、如何に住んでる人が自分の街だって意識を持てるようにするかっていうのが多分大切なんでしょうね。情報を発信する側としては。






----- まず稲葉市長はみきさんにとってどのような方でした?お父さんとしてみた場合は。
間宮 うちはもともと父は大学の教授をやってた時があるじゃないですか。私が子供の時分は物凄く忙しかったのね。夕飯も殆ど一緒に食べなかったので、お父さんが家にいるっていうのは羨ましくてしょうがなかったの。で、あるとき父に「なんで一緒に遊んでくれないの?」っていったら凄く怒ってね。多分父は父なりに気を遣って、その自分ができる範囲の自分の背中を見せてたんだと思うんだけど、そんなに遊んでほしい親がいいんなら、って怒ったのね。かといって子供の教育に熱心じゃなかったのかっていうとそうではけっしてなかったんだ、と今思えばね。でもやっぱりどちらかというと子供と接する時間は少なかったと思う。それがねぇ、姉も私も成人してくると、夜、家族でドライブに行ったり、がぜん家族って輪が強くなったのね。多分それは娘が大人になって、父という存在が日中は物凄く忙しくて仕事に精一杯打ち込んでるけど、気がつくと家族を凄く大切にしてくれるってわかったから。だから妙なくらい家族で一緒に行動することが…姉が大学ぐらいの頃から、だから凄く大人になってからは父と凄く仲がよかった。
----- そうやって家族が仲良くなってからお父様が東久留米の市長選に出るってきいた時はどう思いましたか?
間宮 父は東久留米の市長選の前に別の選挙に出ないか?って話があったのね。その時は家族総出で大反対して。まぁそれが原因かどうかはわからないけど父は断念したんですよ。で、東久留米市長選の話をいただいた時は2度目だったのね。2度目だからある意味「そんなに出たいの?」みたいな。(笑)特に、東久留米の市民の方が物凄く熱心に父にすすめてくれてるっていうのがわかってきていたので、これはしょうがないのかな、ある意味って思ったのが最初かしら。でも大変そうでしょう?どう考えても。でも本当のところの大変さはわかってなかったけど。
----- 実際お父様が市長になられて、お父様を見る目は変わりました?
間宮 父が一期目になった後ぐらいに私は西東京市に引っ越しているんですよ。だから1期目の時っていうのは「あっ大変なんだね」って思いながらもどこか傍観してたのね。いろんなことが周りだす手前のところだったから大変だって母から聞こえてきてはいても、でもどう大変なのかとか家族としてどうしてあげたらいいのか、って多分できない状況に特に1期目であったので。あんな大変なことどこかで引き受けて…。2期目は辞めるのかな、って。(笑)まぁ内心はね。まさかそんなことはないんだろうなって思ってたけど、本当に大変だろうなってのは思っていました。
----- 1期目の選挙の時はみきさんはあまり関わっていなかったんですね。
間宮 そんなには。お手伝いのみなさんが本当に一生懸命にやっているのをちょっと手伝うくらい、事務所に顔を出してとか、その程度かな。だから選挙に対してもお祭りというか、盛上がってきたところで参加させていただいていたので。
----- そんなに選挙に関して関心はあまりないっていうか、ちょっと遠い話だったんですね。
間宮 もちろん、もちろん。本当にそういう意味では普通に生活をして困ることでもなければ市役所に行くこともなく…という生活をおくっていたので。
----- 中心になって関わりだしたのは2期目からなんですね。
間宮 そうですね。それはちょうど仕事も辞めた頃で、まず事務所を動かすところの雑用をやってほしい…ほしいっていわれたのかやらなきゃしょうがないなぁって。周りの方が一生懸命やってくれているのに何かやらなきゃいけないなって思い出していたのね。そのころからか市民のみなさんが議会の前に勉強会みたいのとか学習会とかを開くとなんとなく参加するようになって、こういうのが話あわれてるんだとか、こんなに真剣な人が市民の中にいるんだな、っていうのがなんとなく不思議というか、思えるようになって興味を持ち出したのね。



>>つづき>>



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